私の履歴書 B 松原(まつばら) 治(おさむ)
旧制市岡中入学 毎日のように草野球 同窓の強い連帯、今も継続

 昭和五年(1930年)春、私は幸い大阪府立の旧制市岡中学(現府立市岡高校)に合格した。市岡中学は名門校で野球がめっぽう強かった。同窓生には直木三十五、三好達治といった人たちがいる。私が入学したころは一クラス五十人で一学年六クラスだった。

 当時、校長を務めていたのは古川八太夫先生だった。みんなから慕われた名校長で、先生方も優秀な人ばかりだった。中でも、英語の笹川佐々次郎先生、数学の正富純先生、化学の清水安麿先生には親しく教えを乞うた。清水先生は後に秋田県の視学(地方教育行政官)に転任されたが、戦後にお目にかかった。東京都立両国高校の校長を務めておられ、紀伊国屋に訪ねて来られたことがあった。また、正富先生は後に大阪の府立高校の校長を務められた。

 市岡中学の出身者は強固な連帯感がある。東京には、東京市岡会という同窓会組織があり、私は二十五年ほど会長をおおせつかっている。前任者は、朝日新聞の社長を務めた広岡知男さんだった。広岡さんは十一年先輩で、市岡中学では野球部のキャプテンだった。東大に進んでからも野球部のキャプテンを務めた。昭和六年、不景気の最中に卒業したが、よく「野球をやったおかげで朝日に拾ってもらった」と口癖のように話しておられた。

 私は、広岡さんのように野球部には入らなかったが、クラスの連中と毎日のように草野球に興じた。いつもは右利きなのに、ボールを投げるときは左だった。それで、よくピッチャーをやらされた。

 夏になると、泳ぎなれた築港や砂浜がある浜寺に出かけた。小学校が海の近くにあったのせいで、水泳は得意だったためだろう。そのころは大阪から瀬戸内海航路が出ていたので、天保山に行って汽船を眺めることも多かった。大阪商船が外国から買い入れた「屋島丸」という船が高松、別府に運航していたのでよく見に行った。

 電柱一本一本にアルミ板の番号を張り付ける父の事業はそれなりに順調だった。家の二階に事務所があり、営業のほか工場とのやり取りなどを担当する従業員を含め五、六人はいた。実際にアルミ板を作っていたのは、淀川区にあった工場で、そこでは、得意先である私たち家族を毎年春と秋、宝塚に招待してくれた。

 東京市岡会は毎年必ず六月ごろに総会を開き、暮れには忘年会を開く。大阪に比べたらずっと少ないが、それでも毎回、千人以上に通知を出し、百人以上が出席している。

 大阪人は東京に対して強い対抗心がある。東京の旧制高校や大学を受験しに行くのは敵地に乗り込むようなもので、市岡中学の卒業生が受験に行くときは必ず、応援団が大阪駅に繰り出した。太鼓を打ち鳴らし、「フレー、フレー」とやって大々的に送り出すのである。

 新幹線がなかった時代で、東京までたっぷり十時間以上かかった。東京に着くと、今度は市岡出身の先輩たちが出迎え、いろいろ面倒を見る。さすがに物々しい応援こそなくなったが、先輩が後輩たちを物心両面で気遣う伝統は今も残っている。

 東京市岡会の総会には、必ず大阪から校長が出席している。昔は男子校だったが、戦後は男女共学となり中には女優になった人もいる。脚本家のジェームス三木さんは必ず出席している。

(紀伊国屋書店会長権CEO)